境内のご案内
参道及神苑に區分せられ第一鳥居より約一丁参道を入れば巍然と聳ゆ随神門(一に放生楼と云ふ)あり
之を過ぐれば神域は開けて右側に社務所あり老櫻古松は枝を差しのべ瑞鳥四季に亘りて囀る更に進めば左側に清爽なる手水舎在り滿々たる清水を湛ふ
第二鳥居をくゞり神橋を渡たれば清楚なる聖域に達す鬱蒼たる老杉の間に神厳荘重に鎮まる社殿の威に自ら襟を正さしむるものあり
昭和12年社務所発行「由緒略記」より
一の鳥居
玉村町を東西に横断する日光例幣使道(国道354号)沿い、下新田と上新田の境目に建てられています。ここから北の方向に参道が延びています。木製の鳥居は昭和57年に現在の鳥居に立て替えられました。
随神門
この随神門は慶応元年(1865年)の建造で入母屋造楼門です。棟札によれば、大工は越後国中之嶋の浅野喜内藤原長正、彫物師は武蔵国玉井村の小林槽次郎榮次郎らで、建造にかかわる文献資料はすべて文書で残されています。
参道
かつて、当社の参道には一の鳥居から本殿に至るまで長い敷石が続いていました。その間少しも崩れておらず、整然としていて、それは見事なものだったそうです(現在は随神門から狛犬までの間のみ残っています)。しかし、誰がこの敷石を寄進したのか知る人はありません。これについては次のような話が伝えられています。
久しい昔のことでした。一見商人風の者がやって来て、街道から本殿までの長い間に敷石をしたいと願い出ました。そして材料から石工、人夫に至るまで全部自ら用意して工事を行い、たちまちの間に仕上げ、落成式なども盛大に行いましたが、姓名も住所も里人に告げずに去ってしまいました。人々はこの不思議な男のことを、色々に語り伝えたということです。
これに関してはまた、次のようなことも語られています。
あるとき、どこからか追われて来たらしい者が、八幡宮境内に逃げ込みました。追いすがった岩鼻・高崎などの代官の手下たちがこれを取り巻いて、篠や雑草などを刈り始めました。当時境内は老杉蒼然として太篠が密生し物凄く、何日間も刈ったのですが、なかなかはかどらないので、捕方もあきらめて少し刈り残したままやめてしまった。実は追われていた人はその中に隠れていました。生か死か、彼は篠の中でひたすら八幡宮に念じていました。「自分は悪人なれど、この九死に一生を与えていただければ、きっと改心し、社前に人目につくものを必ず寄進いたします。なにとぞお助けください。」と祈りました。彼は如何なる運によってか、ついに逃れて捕らえられることはなかったということです。
さきの賊が篠藪に逃れ入る際、懐中に持った小判を夢中で投げながら逃げ込んだといわれていました。後年になり池をさらったところ、中から小判三枚が現れました。その賊のものではないかと考えられています。その小判は当社の宝物の一つとされています。(参考『玉村町郷土史』昭和7年)
社務所
お守・お札などのお求めやご祈祷のご依頼はこちらの社務所で承っております。
猿田彦神社・淡島神社
■淡島神社(向かって左側)
毎月10日を人形感謝祭の日とし、人形・ぬいぐるみ・こいのぼりなどの供養を行っています。
■猿田彦神社(向かって右側)
猿田彦神社(石碑)は永年当社境内に祀られていましたが、平成14年、玉村八幡宮境内社として改めて社殿が建立されました。
御神木
境内には大きな楠木(くすのき)が御神木として皆さんをお迎えします。この御神木は、1本の幹から2本の木が生い茂っていることから、通称「夫婦楠木」と呼ばれ、家内安全・夫婦円満・縁結びまた厄除開運の御利益が授かると古来より伝えられています。
十六夜塚
文化2年(1805)8月、竹内勇水筆
やすやすと出でゝいざよふ月の雲 翁
句意 十六夜の月は出る時に十五夜の月のようにすんなりと出ず、いざよって(ためらって)出るものなのに、今日の十六夜の月は待つほどもなくやすやすと出て、そして出てからちょっと雲に隠れたりしていざよっていることだ。季語は「いざよふ月(十六夜の月)」で秋、平明でしかもしっとりとした情があります。
これは『笈日記』上巻「湖南部」に「十六夜三句」として出る最初の句です。元禄4年8月16日、このころ芭蕉は木曾塚(現滋賀県大津市馬場、義仲寺)の草庵に滞在していました。前夜はこの草庵で月見の会を催し、この日は人々とともに舟で近江八景の一つ堅田に渡り、竹内茂兵衛成秀の亭で十九吟(会衆が十九人)歌仙が作られました。参加者は芭蕉、成秀、路通、丈艸、惟然、正秀ほか。この時芭蕉は14、15、16日と続けて三夜月見をしました。この十六夜の月見の模様は「堅田十六夜之弁」にあります。この句を発句に歌仙が作られました。
御水舎
昭和9年4月建造(県社玉村八幡宮御水舎建設奉賛会)、入母屋造
境内の地下より汲み上げたご神水で手と口をお清め下さい。
お堀
前橋を流れる利根川から天狗岩用水を延長した滝川用水(代官堀)の水がひかれており、平成14年10月にはお堀の改修工事も行われ、現在はお堀に錦鯉が放されている。「お水取り」の方はこちらでご神水をお汲み下さい。夜間「お水取り」にこられた方は御水舎のご神水をお汲み下さい。
力石
これを担いだ人として、武州神奈川の徳次郎、同岩槻の長次郎の名が刻まれています。横浜の方からも力自慢が集まり、玉村の名も遠方まで聞こえていたことが分かります。
昔の力自慢が強固な意志で持ち上げたこの力石を、願い事を念じながら撫でれば「心願成就・成績向上の力添えあり!」とされています。
二の鳥居
燈籠
湧水句碑
啼きすてて 思いなげなる雉(きぎす)かな 勇水
句意は、けんけんという雉子(きじ)の短い鳴き声のさらりとしとようなさっぱりした心境を、この声に託したものであります。この句は勇水辞世の句とも言われています。この碑は勇水を慕う門下が建立したものです。
竹内勇水は江戸時代中期から後期の俳人で享保13年(1728)生まれ、下新田の人です。名は徳往(のりあき)、その通称が勇水です。代々「岸屋」という屋号の旅篭を業とし、屋役人を兼ねていました。寛政10年(1790)にその職を辞して、一庵を街の南に設け一桂庵とした。江戸の俳人建部涼袋(りょうたい)、前橋本陣の松井素輪らと交渉をもち、子弟も多く那波俳壇を代表する俳人でした。また、書にも巧みで当社境内十六夜塚の芭蕉句碑や神楽殿の額などにその筆跡が見られます。文化9年(1812)2月10日没、享年85歳、その墓は神楽寺東墓地にあり、玉村町史跡に指定されています。
拝殿
国指定重要文化財本殿・弊殿と繋がっており、祭典やご祈願などで、氏子崇敬者が参拝する建造物。
建造時代は、建築の各種特徴からみて、十八世紀末ごろと推定される。造りは入母屋造で、以前は、棟札を見る限り、檜皮茸の屋根であったが、現在は銅板一文字茸です。
本殿
重要文化財 本殿 永正4年(1507)建立、慶長15年(1610)移築
鎌倉時代の建久6年(1195)に守護安達氏によって鎌倉鶴岡八幡宮から勧請されました。神社の当初の社地は約2.5km南の角渕地内で、現在でも同地には八幡宮が祀られています。慶長15年(1610)に代官伊奈忠次の新田開発祈願を契機に角渕から現在地の下新田に移されました。
現在は幣殿・拝殿が併設され、本殿正面が幣殿に取り込まれ権現造に似た形態をとっていますが、もとは独立した本殿でした。これは向拝柱に残る浜床痕跡や風食跡、本殿正面と幣殿との取り付き仕口などからも明らかになります。 幣殿・拝殿の建造に伴い、浜床が撤去され幣殿と一連の床が張られています。明和8年(1771)に内陣の天井を高くし、火燈窓を取り付けたことにより、現状とほぼ同じ形態となりました。
三間社流造、柿(こけら)葺で南面しています。建物全体は漆彩色で華麗な造りとなっています。
屋根の反りや側面上部の蟇股(かえるまた)・海老虹梁(えびこうりょう)などに特色があります。
特に近世以後行われた修理の部分と、創建当時の違いが対比できるのが貴重とされています。
明治41年に室町時代の建築様式を残す本殿が国の特別保護建造物(旧国宝)として指定。大正14年には県社に列せられ、昭和25年に本殿が国の重要文化財に指定。昭和11年、平成11年に社殿の修理が行われ今日に至っています。
神楽殿
この神楽殿は社伝や虹梁の唐草絵様・木鼻などからみて、文化年間(1804~1817)の建造であると思われる。造りは入母屋造で、屋根は現在はトタン葺となっています。
現在は春祭りに行われる太々神楽の奉納にしか使われておりません。
国魂神社(奉安殿)
奉安殿とは、天皇・皇后両陛下のお写真奉置所のことで明治四十三年十月に玉村小学校に建てられました。児童達は登下校の際には必ず奉安殿に礼をして通っていました。
戦後、奉安殿は八幡様の境内に移転し、戦没者慰霊の国魂神社としてお祀りしております。
この国魂神社は戦没者慰霊の意味だけではなく、この先戦争中の子供達が、どの様な教育を受けてきたかを学ぶ事や伝えていく上で重要な建物だと考えらます。